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佐賀県


ひぜんなごやじょう

肥前名護屋城 (佐賀県唐津城鎮西町名護屋)
天守:なし  日本100名城
戦国期を中心とした主な歴史
1591年8月 豊臣秀吉が「唐入り」を宣言。前線基地として肥前名護屋に築城を命じる。
     総普請は黒田官兵衛、普請奉行は黒田長政加藤清正小西行長寺沢広高らがつとめた。
     普請奉行以下、九州の諸大名が動員され築城が始まる。
1592年3月 城が完成する。
 3月26日 秀吉、名護屋城へ向け京都聚楽第を出発。
 4月12日 小西行長、宗義智ら第一陣が朝鮮半島へ向けて対馬を出航。文禄の役が始まる(戦闘が始まるのは4月13日)。
 4月25日 秀吉、名護屋城に到着。
1593年  秀吉、朝鮮半島で戦況が膠着状態に陥ったのを受け、明使節と名護屋城で交渉に臨み和睦要件を伝える。
     交渉後、秀吉は大坂へ帰還。
1596年  明使節が来朝。秀吉、明使節と大坂で謁見するが、交渉は決裂。再び朝鮮半島への出兵を決める。
1597年  慶長の役が始まる。
1598年  秀吉、伏見城で薨去。朝鮮半島に在陣している諸大名に帰国命令が出る。
1602年  関ヶ原の戦功で唐津12万石(飛び地含む)を得た寺沢広高が名護屋城の遺材を使い唐津城の築城を始める。
1638年頃 島原の乱を受け、今後、一揆勢などに利用されないよう石垣などの破却(破城)が行われる。
(メモ)
 文禄の役の間は秀吉、徳川家康前田利家ほか、全国から大名が集まり、朝鮮半島に渡った将兵は20万、名護屋在陣も10万といわれ、短期間ではあるが、政治経済の中心だった。
 秀吉の在城期間は文禄の役および名護屋城で明と交渉に臨んだ期間で延べ1年2ヶ月だといわれている。
 築城命令から8ヶ月という突貫工事で完成したが、5重7階の望楼型天守をもつ、大坂城に次ぐ規模のお城だったといわれる。
 大手口から伸びる太閤道は秀吉の命によって造られた軍道で現在の唐津市街まで約16キロあり「歴史の道百選」に選ばれている。
 全国から集結した大名たちは城の周りに陣を築いて滞在した。その数は100以上あり、一部整備され見学できる。
 島津義弘の陣跡がある波戸岬は本土最北西端の地である。
 島原の乱後に破城された歴史を残すため、あえて石垣は復元せず崩れた状態で保存されている。
 本丸跡にある名護屋城跡の石碑の文字は日露戦争の日本海海戦で連合艦隊司令長官をつとめた東郷平八郎が書いたもの。
 天気がよければ壱岐島、対馬を肉眼で確認できる。
 隣接する名護屋城博物館には秀吉が城内に持ち込んだという黄金の茶室が再現されている。
 唐津市街から名護屋城にくる途中には「いか」で有名な呼子がある。活き造りを食べれるかは漁船が漁に出ているか賭けになるが、元旦以外の毎朝開かれている朝市も含め、寄り道する価値はある。ちなみに呼子の朝市は輪島朝市、勝浦朝市、宮川朝市と並び四大朝市のひとつといわれている。
天守台 天守台から対馬、壱岐島方面を望む 本丸から見た二の丸と遊撃丸
大手口 馬場下の破城された石垣 馬場と破城された本丸下の石垣
大手口から伸びる太閤道 東出丸から見た徳川家康陣跡 東出丸から見た前田利家陣跡